Mystery Paradise

元は今はなきアサヒネットのmystery paradise 会議室の分室のつもりだった。haha

006 湯浅健二「日本人はなぜシュートを打たないのか」原島由美子「オシムがまだ語っていないこと」

アジア杯のオシムジャパンの現実を見ていたら、この二冊でちょっと書きたくなった。

湯浅健二「日本人はなぜシュートを打たないのか」アスキー新書 2007年7月 724円+税

自分とゴールの間に誰もいないのに、シュートより、より確実に打てると思う選手へパスしてしまう。。。
「なんで打たないんだよおおおお」とTVの前で叫んでる本人も、実は人生の「リスクチャレンジ」の時には、自分でシュートを打たずに、味方どころか相手にパスしてしまうのではないでしょうか。機会が訪れたときに、いやまだ準備不足で。。。と見送ってはいないだろうか。
「野球」というのは、こういうリスクチャレンジを要求しないゲイムでしょう。
投手が球を投げ、それを向かい打ち、打たれた球が守備範囲にくれば、それを捕る。こういうゲイムにはあまり、目の前にシュートチャンスが現れたときに、打つかパスをするかというような選択枝が存在しない。だから、あまり現代日本人の気質が表面化しない。球が目の前にきたら打ち、目の前に来た球を捕まえて、決められたところへ投げる。役割どおりに、目の前のボールを処理すればいいゲイム。
30年以上も前の高校生だったころ、東京から赴任してきた体育教師がバスケットチームの監督に就任したら、母校は県内無敵にのし上がった。その先生の口癖が、野球なんてつまらん。なんで、投手だけがバッターに投げられるんだ。他のセカンドや、ファーストが投げたっていいじゃないか。。。。それまでの母校のバスケットチームは、パスまわしとシュートのチャンスを天秤にかけて、パス回しを選ぶ選手ばかりだったようだ。彼が教えたことは、まずシュートを打て、入らなくてもいいから投げろ。そうして、リバウンドを狙え。打たねば入らない。というものだった。
入らないのはミスではない。それがチャレンジ、トライなんだ。。。と彼は言っていた。でも、彼は、完全に他の教師たちからは、浮いていたのだった。
でも高校の教師でたった一人の印象的な教師だった。
というようなことを読後に思い出させてくれる本です。

原島由美子「オシムがまだ語ってないこと」朝日新書 2007年6月 700円+税

オシムが日本人について言っている。
日本の長所は、あくせく、素早く動き回れる点だ。体が小さい分、ぴったり、激しいマークについて、足技にも長けている。体格で負けても、すばしっこさで勝てばいい。他国は自分たちにはない、日本人の特性に気づきながら、認めたくない部分がある。だからこそ日本は、監督だけでなく、選手自ら、日本人ならではの良さをもっと自覚して生かさねば、もったいない。体の大小や、肌の色など関係ない。知恵と工夫次第では、弱点を利点に変えることもできる。だからサッカーは、おもしろいのだ。
「弱点を利点に変える」含蓄のある文章です。普通の生活でも、この人そこを直すだけで弱点が利点になるのになと思って、アドバイスすると、今のままでもいいじゃないか。普通の生活じゃ、そんなレベルは必要ないんだから、弱点のせいではっきり失敗するようなレベルの高いところでやる気はないんだから、という人はけっこういる。
中田英寿がいまのままじゃ駄目だといっても、ほとんどだれも聞かず、(中田の誰もいないスペイスに出すキラーパスの意味は、わかりたくもない。なぜなら、そこへ、走らねばならないからだ。やさしく中村や小野のように、足元へパスを出してくれない奴と実はやりたくはないのだ)マスコミは、他人が聞かないのは、中田の人間性に欠陥があるからだと、努力を放棄する選手たちを甘やかす。中田が今のままじゃ駄目だという意味を理解できないものが文章を書くのだから、彼らは、天才だスターだと持ち上げて、そう思い込みたい、いいことばかり聞きたがる愚衆に情報を売りつける。(この裏をかいて、なんでもけなして、天邪鬼なだけの同じ愚衆に情報を売る商売もある。)
で、実力順当に負けると、監督が悪い、リーダーがもっと仲間を理解してやれば。。。なんて貶める。というか愚衆は貶める情報をほしがっているだけなのだ。
そこで、オシムは、情報分析表現を職とするものに、逆に問いかける。ところが、愚衆のオピニオンリーダーたちは、まったく理解できない問いかけにとまどう。そんなもん、彼らは売るつもりはない。ほしいのは、愚衆が読みたがってる夢をあおり、詐欺師の保証をしてくれる権威者としての代表監督の言辞なのである。

オシムはまた言う。
誰かを「不要だ」などという人間は、いつか自分もそういう立場に陥るようになる。
人生とはそういうものだ。その時自分はどう感じるか、考えてみるがいい。
「私はこのように改革し、ここが良くなった」と訴えることもできる。しかし、それを言ってしまうと、私がくるまで、その点はダメだったんですよ、と暗に告げることになる。だから、評価は他人に任せよう。
世界的に知られている日本のテレビや車などの日本製品、ハイテク産業、政治や経済的な影響力と、サッカーの強さが同じような水準に行っているかというと、残念ながらまったくそうではない。経済競争は、産業が発達している国々の間に限られるが、サッカーは、世界でサッカーをするすべての国が日本の競争相手なのだ。

そうして、「日本人はなぜシュートを打たないか」と共振する意見もある。
曰く、選手たちの精神面の弱さを指摘することは、社会の弱点のどこかに戻って考えなければならないということだと思う。結局はブーメランのように戻ってくる。
選手たちが成長し、ある位置に至るまでには、社会のルールに合わせなければならなかったはず。もしその点で問題があるとすれば、それは選手たちが悪いのではない。選手たちがどのように育てられてきたか、という背景に問題が潜んでいるのではないか。
日本でも様々な競争があるが、私は、日本社会全体が、同じ考えで動いているのではないかと感じることがある。マスコミも含んだ社会全体が、同じやり方、同じ発想の中で競争している。そして、日本人以外も同じパターンで行動すると思い込みがちだ。その中で子どもたちが、ある課題に直面したとき、自分の問題として自分だけの力で様々な可能性を考えて解決していこうという心の準備や能力をつけるように育てられているか---果たしてどうだろう

また、こうも言ってる。
曰く、日本の多くの選手やその周囲に問題があるとすれば、我慢強くないということ。
ある選手が準備をし始めても、トップレベルに到達するまで我慢ができない。到達できないとそこであきらめてしまう。トップクラスになりたいなら、周囲も選手自身も、即効性を望まずに、忍耐強くなければならない

で舞踏派は思うのだ。
周囲のさらに遠い周囲でしかないテレビ観戦者は、じっと見守るしかないのだ。たまには、スタジアムで生で見なければ。

確か藤田宜長にサッカーネタのミステリがあった。
【みすてりな日々】で書いてるはずだから、探して、アップしようかな。
ミステリ舞踏派久光