Mystery Paradise

元は今はなきアサヒネットのmystery paradise 会議室の分室のつもりだった。haha

006 「ライアンの娘」坂田靖子 (株)復刊ドットコム 2010年 952円+税

久しぶりに坂田靖子のマンガが三冊積まれていたのを速攻で買ったのは、8月だったか、七月だったか、とにかくこの夏のことです。で、この「ライアンの娘」は、1991年にプチフラワーで連載されたのだそうだ。坂田靖子マニアとしては、当然買ったはずなのだが、記憶にない。腰巻をよんでみたら、「初単行本化」。株式会社復刊ドットコムうん、マニアックな出版社であることですねえ。
ま、ダバダバ・ライアンという女の子と父親の発明家ライアンさん、洗濯機アンドロイドのお母さん、愛犬エルサルバドルの家族が、引っ越してきて町に起こるほのぼの珍騒動っていう、いかにも坂田靖子ワールドな話。坂田靖子のファンなら、見たとたんに財布をはたいても買うだろうけど、ファンでなければ、パス。。。というか目にもはいらないかもしれない。
万年床枕元の積読山脈に(そろそろ片付けないと冬支度が不便になる)置いといたのを寝る前に半睡寸前でぺらぺらまくってたら、あれ、と思った。ライアンの娘の扉絵の走ってくるダバダバが、ナンバ走りなのですねえ。がばりと目が覚めた。。。あ、いや、がばりと起きたので、目が覚めてしまった。走ってるシーンと歩いてるシーンを探す。すっかり目が覚めてしまった。 ここも、ここも。。。ナンバ走りだあ。(ちなみにナンバというのは、右手と右足、左手と左足を出す体を捻らない歩き方で、日本人は江戸時代までナンバに体を使っていたという。これで走るのには、手の振りが邪魔なんで、災害や戦争で走るときには、両手を上にバンザイしてフリーにして、走ったとか。)ほかもそうだったかなと、立ち上がって押入れの(立ち上がれば、本がなだれ込んでいて戸がしまらない押入れなのです)棚の坂田靖子を探してみる。懐中電灯を使うのは、その前に干してある洗濯物のせいで蛍光灯の光がはいってこないのと、老眼鳥目気味のせい。
お、「叔父様は死の迷惑」(ASUKA COMICS 角川書店 1987年 370円)がある。10頁で(ストーリーとしては、4頁目)主人公の小学生で小説家志望のメリィアンが、資料集めでパパが読む前の新聞を切り抜いているのを怒られて逃げている駒がナンバである。ついで、堅物の父方の叔父さんのデイヴィッドがクリスマス訪問するというので大掃除の姉と母から逃げ出して、屋根裏に上がるとそこには、母方のグリーンランドに住んでるはずのカマスシチュー大好きのヒゲもじゃ叔父さん(「死の迷惑」な叔父様)のデイヴィッドがいたので居場所を失ったメリィアンは、怒り心頭で「アクロイド殺し」を読むために家を飛び出す・・・・その駒がまたナンバ。この叔父さんが裸でイングランドの冬をジョギングしてるので、メイリィアンが絶叫する駒が、やっぱりナンバ。
ま、マンガの古典的基本表現というのは、顔はいつも正面向きに書くとなんかで昔読んだから、ついでに両手は、広げて左右に書くほうが自然に見えて、移動の時は、足の爪先が横向いて書かれるから必然ナンバになる・・・・・ということなんだろうけど、最近のマンガは意外にリアルで、両手を振って歩く、走るシーンというのは少ないし、書いても、左足と右手の現代歩行スタイルになってる。
 そういえば、劇画はどうなんだろうと、チェックしてみた。と、言っても、時代ものはほとんど持ってないのですねえ、昔のさいとう・たかおは、ほとんど今風の体さばきで、テレビや映画の時代もののように歩いているように書いているというのを、ナンバを知ったころにチェックした記憶がある。

鬼平犯科帳 おみね徳次郎」さいとう・たかを (原作/池波正太郎 脚色/久保田千太郎SP Pocket リイド社 2008年 300円)

 たまに走ってるときに、今風の駒がないこともないと見られるものがあるけど、ちゃんとナンバですねえ。時代考証はできてるわけです。懐手で歩いてる姿が多いし、手に何か持たせて、今風に見えても体さばきは捻らない歩き方に書いてある。たまに、小さな駒で小さな群集の一人に現代役者がまじったようなのは、これは新人アシスタントの書いた部分なんでしょうね。Lolol.

剣客商売 8」大島やすいち(原作 池波正太郎 リイド社 2010年 580円)

大治郎の弟子の粂太郎が岡ッ引の弥七の家へ走る後姿の小さな駒が、現代子役の走りですねえ。これはやはりアシスタントの絵ですね。「題三十二話 手裏剣お秀」の扉絵が、秋山小兵衛と弥七、その子分の徳が走るのを斜め前から書いてる。小兵衛と弥七の体さばきは、これはナンバ走り。。。うん、弥七の右ひざが曲がりすぎてるような気もする。ナンバ式走りだと、こういう撥ね上げる走り方にはならないと思うんだが、まあ、許容範囲か。でも大島先生、後ろの徳は、現代役者でっせ。(バツ&テリーで書きなれたランニング描写がつい顔出したのかもlololol)それ以外は、時代考証が歩きと走りの体さばきについては、マチガイがない。たいしたもんです。

「猫絵十兵衛 御伽草紙 二」永尾まる (NEKO PANCHI COMICS 少年画報社 2009年 600円+税)

惜しいなあ、大家の二人以上に、ほとんどアシスタントも使わずに書いてるだろうに、小さな駒の小さな絵で、現代子役を使ってしまった。。。「しじみ猫の巻」でシジミ売りで病人の母親と5人の弟妹を食べさせている少年松吉が、冬雨の小川でシジミ採りして引いた風邪を押して売り歩くうちに熱で動けなくなり、十兵衛に助けられて帰宅する。その松吉の帰りの遅いのを案じていた弟妹が駆寄る。。。その駒の小さな絵の次男坊徳二が現代っ子。。。まあ、話が感動的で、倒れた松吉の替わりに懐で温めてやった迷い猫が、シジミを採って売り歩いてくれる。直った松吉が小川へ出向くと、自分そっくりの少年がシジミ採りをしている。お前は誰?と問うと、少年は変身してずぶぬれの仔猫にもどる。思わず抱きしめると仔猫はすりすりと甘えたあと、ニャンと一声、その腕の中から消えてしまう。背負いカゴいっぱいのシジミを見つけて、松吉は仔猫を呼ぶが消えたまま。そこへ十兵衛が現れて、仔猫の正体はこれだと、小さな社に祭られていた猫石を指す。松吉が、シジミ売りの途中でお参りして清掃していた社だった。
え、なんでいつも十兵衛がタイミングよく顔を出すのだと?お尋ねですか。それは、一にペイジ数が理由。もう一つは、猫石が、猫絵師十兵衛を呼ぶんですね。LOLOLOL.

とまあ、最近のマンガ家というのは、勉強家ですねえ。役者の場合は、なんたって体さばきが古流にするのは、難しいし、走れるとしても走る姿は現代風の方が美しく見えるような文化の中で視聴者観客は生きてるから、受けないだろう。たとえ、現代武術を極めても、それは古流とは別物で、例えば子連れ狼中村錦之助のように、現代居合い風の体さばき、剣使いになってしまうなら、いっそ見映えする芸で楽しませてくれる方が実写ものではいいのかも。
でもマンガというのは、なかなかの表現メディアです。石ノ森正太郎が書いたように、生身の人間が演じるわけじゃないから、映画やTVでは表現できないものを表現できるのですねえ。ときには、デフォルメしたリアルさであり、ときには考証の入った歴史的世界も。